「ねぇB子さん。次の休日に地下鉄ストアに行きましょうよ。いいでしょう?」
「お姉さま。帰ってきたらまずシャワーを浴びてくださいって、私いつも言っています」
昼休みに聞いた「地下鉄ストア」の話は、本当だったらしい。軽薄な噂話に興味のない先輩が、冬の香りと汗の匂いをまとったままこんなことを言ってくるなんて、よっぽどのことだ。
「あら、すみません。C子さんから楽しい話を聞いたものだから、つい」
先輩がジャージを脱いでシャワールームに向かう。暖かい空気に蒸れた匂いが触れて集中できなくなってしまうから、やめてほしいのに。先輩はそういうことを分かってくれない。教科書をなぞる指を離して、消臭スプレーを部屋にひと回しした。
ベッドに倒れ込むと、先輩がシャワーを浴びる音が聞こえてくる。しょわしょわとした不規則な音は、きっと髪を濡らしているのだろう。泡を流す時には、もうちょっと優しい音がするから。
私が地下鉄ストアの存在を知ったのは、昼休みのたびに教室で私の席を占領しておしゃべりするのが大好きなクラスメートたちの会話を聞いたからだ。グループの中心、その親友っぽい子、いじられキャラの子、顔色を窺うばかりの二人……えーと、どっちがどっちだったっけ。私の席に座らないなら、どちらでもいいけど。
校則を真面目に守る子って苦手だ。みんな同じ服を着ていたら、誰だか分からなくなってしまうから。髪型だって、髪の色だって揃える必要なんてない。もういっそ、ヒーロー戦隊みたいにみんな違う色になってくれればいいのに。赤、青、黄……まぁ、どうでもいいや。
人間は何百万色も見分けることができるらしいし、NUC個人番号の代わりにイメージカラーをプレゼントしたらおしゃれだと思う。普段の先輩は白すみれ、さっきの先輩はりんどう、あるいは桔梗みたいな色。たまに、かきつばた。あぁ、何色あっても足りないかもしれない。私だったらちゃんと見分けられるのに。
不法占拠を追い出さずに話を聞いていると、どうやら地下鉄ストアは駅前にできた商店街のことらしい。ただし、商店街ごと地下に収められていて、地下鉄の通路か地上に新設された入り口から降りていく必要がある。若者向けと銘打っているだけあって、流行を押さえたファッション、雑貨、カフェを揃えつつ、立地の悪い区画にはマニア向けのお店も入っているという。
「地下鉄ストア、B子さんも知っているでしょう? 学校中の噂になっているわ」
板張りの天井を覆うように、シャワーを終えた先輩のほかほかとした香りが目の前に広がる。白すみれ色だ。先輩は私の返事を待たずに隣に座って、私が起き上がるのを待った。横から抱きつくように淡いクリーム色のルームウェアに触れると、もこもこの生地に包まれた薄い脂肪の身体が腕の中に感じられる。
それに応えるように、先輩が私の手を握ってその余熱を私に渡した。
「写真をもらったの。一緒に見てもらっていい?」
先輩が白い封筒から何枚か写真を取り出す。一枚目はアーケードの入り口だという。丸く光るパネルが六つアーチに並んでいて、「地下鉄ストア」を一文字ずつはめ込んでいるのが分かる。アーチをくぐると、まずはファストフード。そこから、きつね色、緑、白のお店が続く。前の二つは服か雑貨、その奥は小さな本屋だろう。
「あら、看板の文字が少し傾いているわ。ここよ」
「えぇと、アーチの文字はこっちから赤、青、黄色です。道のブロックは、灰色、白……こっちはあずき色ですね」
「ありがとう。赤と黄色って、なんだかよく似てるから嫌いだわ」
それから、先輩は何枚か写真を見せてくれた。話を聞くと、メインストリートを歩きながら友達とショッピングを楽しむ、なんてことない風景だ。きっと先輩の友達たちなのだろう。でも、カメラに、あるいはカメラの持ち主に向けられた屈託のない笑顔を想像すると、一枚ずつびりびりと破りたくなってしまう。
そんなことをしたら、先輩はどんな顔をするのかな。きっと、嫌というほどよく見えるだろう。
「B子さん、いいでしょう? 行きましょうよ」
「先輩。私、外出は嫌なんです。知っていますよね?」
「えぇ、分かっていますとも。でも、私となら出かけてもいいって言ってくれたじゃありませんか」
先輩が外に出たがるのはいつものことだ。先輩の友達は先輩を連れて外出するのに乗り気じゃないことも、先輩がそれを知っていて気を遣っていることも、最後は同室の私に頼むしかないのもいつものこと。そう、いつものことなのだ。だからこそ、私と先輩は少しずつすれ違っていく。
どうして先輩はそんなに外出したがるんだろう。それも、新しい場所に行くだなんて。怖くて、難しくて、ちょっとしたこと足を踏み外しそうになる。そんなことをするくらいなら、ずっと部屋でじっとしていたほうがましだと思う。どこにも行かないで、ずっと私の隣にいてくれればいいのに。どうやっても思い出を共有できない私といるのは、やっぱりつまらないんだろうか。
「期末考査だって近いんですから。先輩は頭がいいでしょうけど、私はもう少し勉強しなければいけないんです」
真面目な先輩は、考査を理由にすれば何も言えなくなるのを知っていた。先輩は、私の成績を犠牲にしてまで私を連れ出そうとするような人ではないから。特待生の先輩が頭がいいのだって本当だし、私の勉強が遅れていることだってよく分かっているはずだ。
先輩が立ち上がって私に向き直る。ずるくて卑怯な後輩に。淡い藤色だ。
「……えぇ、分かりました。では、私一人で行きます」
「先輩。聞き分けのないことを言わないでくださいよ。私がいなかったら、どうやって服を選ぶんですか?」
先輩が一人で街に出るなんて、できるわけがない。私がいなかったら何もできないんだから。私がいなかったら電車に乗るのも苦労するし、まともな買い物だってできやしないんだ。私は先輩を見上げてじっと見つめた。そうしないと、卑怯な自分がばれてしまう気がしたから。
「できるわよ。それくらいできるわ。B子さん、私のことお嫌いですか? だから意地悪を?」
「好きとか嫌いとか、そんなことを言ってるんじゃないんです。先輩だって外出は怖いでしょう?」
「いいえ、好きですわ。あなたと街を歩くのが好きです。いい後輩ねって言われるもの」
色が見えない先輩と、色しか見えない私。先輩は色彩のない線と形だけの世界を生きて、私は線も形もない色だけの世界を生きている。二人の世界を合わせれば一人前の世界になるんだよと、校医さんが口癖のように言っていた。でも、先輩と協力しあったって、知らない場所を歩く恐怖がなくなるわけじゃない。学園の外では誰も助けてくれないから。
先輩だって、そのはずなのに。そうじゃなきゃいけないのに。
「そういうの、私にはよく分からないです。先輩のほうが綺麗ですし。みんなはきっと、先輩と街を歩きたいんですよ。だから、もう――」
もう……今、何を言おうとしたの? 私は思わず口を押さえるけれど、先輩は続く言葉を待っている。これは困惑か、あるいは期待か。
どう誤魔化そうかと思っているうちに、紺色の沈黙がじわじわと足元から空気を埋めていって、口から、鼻から、息が詰まりそうになる。先輩が見えなくなる。どうしようもなかった。
「――なんでもないです。先輩、髪やってあげます。それと……好きですから、ちゃんと」
私の腕を振り払って、私の「好き」を引きちぎって、先輩がどこかに行ってしまうかもしれない。私のいない場所へ。もっと広い場所へ。先輩と出会ったときから、ぼんやりそう思っている。
鈍色の海から籠の鳥が飛び立っていく。その前に、私は何ができるだろうか。